闘う少女たち。井田真木子:プロレス少女伝説 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

神谷沙耶とフワちゃん

 

久しぶりに井田真木子『プロレス少女伝説(1990)文芸春秋』を読み返していて、戦後の「闘う少女たち」の登場が意味するものはなんなのだろうね。登場はやはり戦後だろう。戦前は(父や夫が戦場に赴むいたことによる)銃後の家族の一員として、強く清く生き家族や周りの人びとの一助たる少女はいた。

 

夢想譚ともいえる、手塚治虫『リボンの騎士(1953)』や武内直子『美少女戦士セーラームーン(1992)』などの系譜は、それでも無視できないような気がする。たとえば「エヴァンゲリオンの少年少女(2007)」たちの戦いが、なぜ始まって、なぜあそこまで苦しくなってしまったのか? あるいは、なぜ苦しい戦いを描かれなければならなかったのか。

 

こうした「闘う美少女戦士」の系譜については、斎藤環『美少女戦士の精神分析(2000)太田出版』が出版されている。ただ、内容については未消化でわからない部分が多い。

 

井田真木子:プロレス少女伝説(1990)文芸春秋

自製カバー(才木玲佳さんの写真を勝手に)

 

井田真木子があばいた女子プロレスの少女たちは、そこで夢を追うでもなく渇いた日常と内実が表出されている。そして、ここに登場する長与千種、特に神取しのぶ、中国帰国子女で、日本語がわからずに毎日見ていたテレビで女子プロレスに出会ったという天田麗文たちの「闘い」は結局なんだったのか? 誰と何と戦っているのか判然としない。

 

それでも彼女たちは闘う。本能のおもむくままに戦っているような。現在の女子プロレスは「アイドル的な興行」とらえらているようだが、その筋に疎いため現在の彼女たちの内実はわからない。気になるところです。ということで自製カバーを新調しての再読です。夭逝された井田真木子さんについては幾度も書きました。